受肉ー「フィード・カテキズム」シリーズ4サンプル

なぜイエスは、神がどのようなお方かを示すことができるのか?
それは、イエスが二つの性質を携(たずさ)えた、完全に神でありながら同時にまったくの人間でもあるからだ。
天地創造の神が、ナザレのイエスという実在の人物の中にご自身を現わされた、という奥義をキリスト教の信仰は肯定する。信仰者としてイエスは100パーセント神であり、100パーセント人であると信じている。しかし、今までどうしてそんなことが可能なのか、不思議に思ったことはないだろうか?
イエスが完全に神であると同時にまったくの人間であるということを、私たちの限られた頭では理解できないかもしれないが、理解できないから真実ではないと考えるのは間違っている。神の方法が私たちの理解を超えているのは、それほど驚くべきことなのだろうか?
しかしその質問とその答えは非常に重要である。それは神の啓示と救いにかかわる問題だからだ!
このように考えてみよう。もしイエスが完全に神ではないなら、完全に神を「現わせられない」。しかしイエスが完全に人でもないなら、「人間に対して」神を完全に啓示できない。
つまり、啓示が危険にさらされてしまう!
また、もしイエスが完全に神でないなら、私たちを罪から完全に救うことはできない。しかしイエスが完全に人でもないなら、「人間」を罪から救うこともできないのだ。
だから、啓示にかかわる問題なのだ。
イエスが完全に神を現わし、私たちを完全に救うためには、イエスは完全に神であり、完全に人でなければならない。
クリスチャンが神について信じていることの声明として、初期教会のニカイア信条を少し読んでみよう。
「私たちは、唯一の神、全能の父、天と地、見えるものと見えないものすべてのものの造り主を信じます。
また、唯一の主、イエス・キリスト、神のひとり子、すべての世に先立って父から生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られたのではなく生まれ、父と同じ本質であり、すべのものはこの方によって造られたことを信じます。
主は私たち人類のため、また私たちを救うために天から下り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬(ほうむ)られました。
聖書にある通り三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。生きている者と死んだ者とを裁くために、栄光のうちに再び来られます。御国は終わることがありません。また主であって、いのちを与える聖霊を私たちは信じます。
聖霊は父と子から出て、父と子とともに礼拝され、崇(あが)められます。また預言者を通して語ってこられました。唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます。
罪の赦(ゆる)しのための唯一の洗礼を信じ告白します。死んだ者のよみがえりと、来るべき世の命を待ち望みます。アーメン」
この読書プランについて

「フィードのカテキズム」は、一連の質問と回答で構成されており、個々が聖書を探求し、神の物語を発見できるように設計されています。これは、さまざまな背景を持つ神学者や教会の牧師たちによって執筆され、歴史的な偉大なカテキズムからも多くの影響を受けています。 これは全9部作の「フィード・カテキズム」シリーズの第4部です。内容は、創造、堕落、契約と律法、受肉、贖(あがな)い、恵みと赦し、聖霊、教会、そして新しい創造から成り立っています。
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