受肉ー「フィード・カテキズム」シリーズ4サンプル

神はイスラエルと世に対して、どのように約束を果たされたのか?
神は罪と死の力からイスラエルとこの世を救うために、御子であるナザレのイエスを遣(つか)わされた。
たいていの宗教は、どうすれば神のもとへ行けるか、あるいはどうすれば神にとって十分な存在になれるか、またどうすれば良い人間になれるかについて語るものだ。そしてどの宗教も何らかの形で、世が混乱していると考えているが、多くの場合、もし神のもとへ行くのであれば、神が見守る中、この世の混乱から自力で立ち上がるしかないと考えている。
確かに世は混乱している。そして、目指すべきゴールは神との親しい交わりにあること、ということも正しい。しかし、ここでどんでん返しがある。それは、私たちが神のもとへ行く必要はない、ということである。神が受肉されて、イエスという形で私たちのもとへ来られたからである。イエスは完全に神であり、同時に完全に人であった。それがキリスト教信仰の驚くべきメッセージだ。「神が」この混乱から救い出してくださる。私たちは自分自身を救う必要はない。
この救済、つまり神の受肉を通して、すべてが、イスラエルとの約束に対する神の誠実さを示す証拠となっている。神はイスラエルを祝福し、また、イスラエルを通して世を祝福すると約束された。罪が人と神との関係を壊したとき、神は罪と死の力に打ち勝つために、イエスを遣わされた。それはまた、神と人との関係を修復し、贖(あがな)い、私たちの救済を新たにするためだった。イエスは、イスラエルとの契約、すなわちこの世を救済するために定められた契約に対する、神の誠実さを全うされた。それはまさに、私たちを救う契約である。
しかしこれが全ての点において一番大切なことだ。私たちがどこにいようと、どんな状況であろうと、どんな混乱に陥(おちい)ろうと、「私たちは孤独ではない」のである。私たちは見捨てられない。神ご自身が私たちを救うことができるし、また救いに来てくださる。それがキリスト教信仰の大きな希望なのだ。
今日、御子イエスというかたちで、神が私たちのもとへ来てくださったという福音について、黙想する時間をとってみよう。そのことが神の気質や性質、そしてあなたに対する神の驚くべき愛について、何を示しているかを考えてみよう。
この読書プランについて

「フィードのカテキズム」は、一連の質問と回答で構成されており、個々が聖書を探求し、神の物語を発見できるように設計されています。これは、さまざまな背景を持つ神学者や教会の牧師たちによって執筆され、歴史的な偉大なカテキズムからも多くの影響を受けています。 これは全9部作の「フィード・カテキズム」シリーズの第4部です。内容は、創造、堕落、契約と律法、受肉、贖(あがな)い、恵みと赦し、聖霊、教会、そして新しい創造から成り立っています。
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