聖霊に満たされて歩む7つのしるしサンプル

7 Signs of Walking in the Holy Spirit

10日中 10日

「悔い改め」を求めましょう。「一時しのぎ」で満足しないでください。

サウルの霊的な歩みに欠けていたのは、まさに「悔い改め」でした。彼は言い訳を並べ、人のせいにしながらも、決して心から神に立ち返ることはありませんでした。サムエルに敬意を払ってもらおうと、表面的に謝ったことはありましたが、そこに真実な悔い改めはありませんでした。

謙遜で砕かれた心がなければ、聖霊との親しい交わりを保つことはできません。罪は神の心を痛めるものです。だからこそ、私たちの心もまた、罪の重さに打たれ、砕かれるべきなのです。神に対して過ちを犯したときに求められるのは、自己弁護ではなく、神の前にへりくだる姿勢です。

けれども、私たちもサウルのように、「悔い改め」よりも「罪の痛みからの解放」ばかりを求めてしまうことがあります。罪そのものを取り除いていただくより、痛みや罪悪感といった“症状”の緩和ばかり願ってしまうのです。「私をあなたの従順なしもべとしてください」と祈る代わりに、簡単な「ごめんなさい」で済ませてしまいたくなる――これは聖霊を深く悲しませる態度です。聖霊は、私たちが進む向きを変えて、神に立ち返ることを望んでおられます。

サウルが苦しみの中にあったとき、彼は神のことばを告げる預言者を求めるのではなく、ただ気を紛らわせるために音楽家を招きました。悪霊に苦しめられていたにもかかわらず、救いではなく娯楽を選んだのです。悔い改めることよりも、その場しのぎの安心を選んだ――そのような器を、聖霊が退けられたのは当然でした。

心の痛みや罪悪感は、内なる問題を知らせる神からの警告サインです。無視したり取り繕ったりするのではなく、根本的な修理――つまり悔い改めこそが必要です。それが、問題そのものを修復する唯一の道です。

サウルは、一時的な安心を何度か経験しましたが、心の奥底では生涯にわたって悩み続けました。たとえ神を深く知らなくても、預言することがありました。しかしそれは、神との交わりがあったことの証ではありません。どうか、「悔い改めがもう自分には必要ない」と思わないでください。

詩篇51篇に記されたダビデの悔い改めの祈りを読むと、なぜ神がダビデを喜ばれたのかがよくわかります。ダビデは言い訳せず、誰かを責めることなく、自分の罪を認め、涙を流して神に助けを求めました。きよめ、回復してくださる神だけを信頼し、心から立ち返ったのです。それに対してサウルは、言い訳を重ね、人を責め、王位や地位を守ることばかりを気にし、神ご自身を求めようとはしませんでした。

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この読書プランについて

7 Signs of Walking in the Holy Spirit

すべてのクリスチャンは、救いによって聖霊との交わりを与えられています。けれども、すべての人が、聖霊と親しく交わっているわけではありません。交わりと、親しい交わり――この二つのあいだには違いがあります。親しい交わりは、自分の人生を聖霊に明け渡すときに初めて生まれるものです。

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この読書プランを提供してくださったウラジーミル・サブチュク氏(Vladmir Savchuk)に感謝します。詳細は次のサイトをご参照ください。 http://www.vladimirsavchuk.com