あなたの「なぜ」を知るー「召し」を知り、「召し」に歩むサンプル

情熱を感じるものへの召し
神の「召し」について話すとき、自分で決定するという選択をまったく除いて考える人が多くいます。まるで、自分の願望や、心配事、そして情熱や才能は、神の「召し」とは無関係であると考えてしまうのです。しかし、実際、愛する天の父が私たちを召してくださったという事実は、私たちが自分自身で選択するという自由を否定するものではありません。
自分は何に情熱を持っているのかを見つけること、つまり、「自分は何をしたいのか?」という問いに答えることは、私たちの召しを見つけるのにとても重要です。でも、それは簡単に答えられる問いではありません。多くの人にとって、「本当に自分がしたいことは何か?」を見つけることは、心の奥深くを探っていく過程です。情熱を見つけるという旅は時間がかかりますし、人生のさまざまな時期によって答えも変わってくるのです。
ですから、それはイエスの弟子たちにとっても同じで、はじめは自分が何を求めているのか分かっていませんでした。弟子たちがわかっていたのは、「自分たちが何かを探している」ということだけだったのです。イエスが弟子たちに、「何か願いがあるのか」と尋ねられた時、彼らは何と答えたらよいのかわかりませんでした。代わりに、彼らは、質問を返しました。「どこにおとまりなのですか」。(ヨハネによる福音書第1章33~39節)
弟子たちの質問の意味ははっきりとしていました。「私たちは、あなたの質問の答えがわかりません。何を探し求めているのか、どこへ向かっているのかわからないのです。しかし、これだけははっきりしています。私たちは、あなたと共に過ごしたいのです。あなたにとどまっていたいのです。もっとあなたについて学びたいのです。もしあなたが本当にヨハネの言うお方なら、私たちが本当は何を探しているのかを示してくださるできるでしょう。」
イエスの弟子たちに「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう。」とシンプルに答えましたが、その返事は弟子が言葉にしなかった質問の答えにもなっていました。「一緒に来て、私があなたに用意した計画、あなたに与える召しと情熱を見つけなさい。」ということを意味していたのです。そして、弟子たちはまさにその言葉通りの行動をとりました。弟子たちは、「探す者」としてその家に入り、その家から出るときには「探され、見出された者」となっていたのです。
イエスは、弟子たちを探し出し、彼らを召されました。彼らは自分たちで真実を探すのをやめ、新しい召しとアイデンティティーを受け取りました。それは「自分たちが」全ての答えを持っていたからではなく、全ての答えを持ったお方を見つけたからでした。彼らは新しい宗教活動や働きを見つけたのははなく、「唯一のお方」に出会ったのです。弟子たちは、イエスに知っていただいたのです。そして、イエスに知られたことによって、彼らの人生が変わったのです。
この読書プランについて

この七日間の読書プランは、人生における神の召しをしっかり感じ取る手助けをしてくれます。あなたの召しを見つけ、その召しを満たしてください。そして、神に知られ、愛され、召されている者としてのアイデンティティーを確立してください。ケン・コスタの著書「あなたの『なぜ』を知る」から引用しています。
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