私の終わり ― そこからはじまるサンプル

The End Of Me By Kyle Idleman

7日中 4日

へりくだることによって高くされる

ミニストリーの働きに携わる中で、ひとつ学ぶことがある。それは、人々が解決策を求めて教会にやって来るということだ。彼らは問題に囚われ、その背後に超自然的な答えがあるのではないかと願っている。借金、依存症、うまくいっていない結婚生活――理由はさまざまだが、やがて「どうしたらいいのか」と問うようになる。問題に対する「やるべきことリスト」を求めるようになる。「自分はどうしようか」と。人はつねに「行動」の中に答えがあると考えているのだ。

もちろん、やるべきことが必要な場面もある。だが本質的には、自らを低くすることに代わるものはない。とはいえ、ここで多くの人は言うだろう。「もっと謙虚になれってことだろう? でも、それ以外に僕にできることはあるはずだ。『謙虚になる』以外に、なにか『行動』をしたいんだ。」

けれど、『する』ことは『なる』ことより、ずっと簡単だ。『する』は単なる行動である。しかし『なる』には、内面からの変革が求められる。

どうしても「やるべきこと」知りたいのなら、こうすればいい。
距離をとり、胸を叩いて、本気でこう祈るのだ。「神様、どうかわたしをあわれんでください。」

この最後の一つこそが、核心である。それは、自分を低くしたときに起こる。

「してはならないこと」もあげておこう。
・自分の正しさを神に訴えないこと。
・経歴や実績を並べ立てないこと。
・他人より自分が恵まれていると比べないこと。
・祝福されるべき理由を並べ立てないこと。
・自分が神の子であることを誇らないこと。
・自分の努力を神に自慢しないこと。

神の前においては、へりくだることに代わるものはない。謙虚な心は神の喜びとなり、謙虚な叫びは、神の力が現れる場となる。

へりくだるという行為は、しばしば「誰かや何かによってへりくだらされるもの」だと受け取られがちである。失業、関係の破綻、打ち砕かれた夢――これらによって人は打ちのめされ、謙虚になる。だが、イエスが語るへりくだりは違う。それは能動的な行為である。「へりくだりなさい」と主は言う。これは自然に起こるのを待つべきことではない。「自分を低くする」という言葉は、違和感すら覚えるかもしれない。まるで自分を痛めつけることのように響く。私たちは、むしろ自己主張するよう助言されることに慣れているのだから。

だが、キリストこそがへりくだりの究極の模範である。ご自身の栄光を手放され、自らを低くされた。神の本質を持ちながらも、その身分に固執せず、むしろそれを手放されたのだ。

では、自らをへりくだらせるにはどうすればよいのか?「私」の終わりにたどり着くために、私が実践している方法をいくつかあげよう。
・罪を進んで告白すること。
・匿名で、惜しまずに与えること。
・周りの人を自分よりも大切に扱うこと。
・助けを求めること。

この読書プランについて

The End Of Me By Kyle Idleman

この読書プランは、『Not A Fan』(好きじゃない)の続編にあたるカイル・アイドルマン(Kyle Idleman)の著書をもとにしています。あなた自身の「終わり」にたどり着くようにと招かれています。なぜなら、そこで初めて、イエスが内側から私たちを新しくしてくださる生き方を受け入れられるからです。

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カイル・アイドルマン(Kyle Idleman)氏とデヴィッド・C・クック(David C Cook)社がこの読書プランを提供してくださったことに感謝いたします。詳しくは、次のサイトをご覧ください。 www.dccpromo.com/the_end_of_me/

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