読書プラン情報

普通であるという祝福サンプル

The Blessing of Ordinary

10日中 1日

はなはだ良かった普通の日々

はじめに、狡猾(こうかつ)なへびが禁じられた木の実を食べるよう誘惑する前、最初の人は神が「はなはだ良い」と言われた地で生きていました……しかしそこには教会の建物もなく、賛美歌もなく、何よりも聖書もありませんでした。命と死の話も、イエス・キリストの復活もまだ歴史に刻まれていませんでした。それでもなお……人は「はなはだ良い」地に生きていたのです。


人は神によって置かれたエデンの園でただ地を耕し働いていました。神が「はなはだ良かった」と言われた中には、土ぼこりも動物の毛も排せつ物も含まれていたことでしょう。そして神のために何か特別立派な行いがあったわけでもありません。ただ、動物の世話をしたり植物の種が芽吹くのを待ったりする忠実な行いがあるだけでした。キリストにある信仰に生きる人々の多くは、ひそかに霊的なフラストレーションを抱え、それをうまく隠していると私は思います。


そういう人は聖書に出てくる偉大な行いについて読み、神に栄光を帰すような行いをする立派なクリスチャンについて聞き、自分自身の人生と比べてしまうのです。請求書を支払ったり、サッカーの練習に慌てて出掛けたり、日々のデボーションのための時間を無理やりひねり出したりする人生と。そしてこう思うのです。「私の人生には何か大切なものが欠けているのではないか?私なんかの平凡な人生に神様は不満を持っておられるのではないか?」


必死にオムツを替えている時にも、朝の通勤時にも、見たところ何の意味もなさそうな会議に出席している時にも、良いことはあります。そしてそれは、イエス・キリストにおいてのみ見いだせるのです。このイエス・キリストはまことの神であり、まことの人です。良き王が私たちのために神への橋渡しとなってくださいました……そしてこの橋には人間であることすべてが含まれています。つまり髪の毛の乱れためちゃくちゃな、そして退屈で平凡な部分も含まれているのです。


いったいいつから普通であることがひどいことを意味するようになったのでしょうか?あたりまえであることがパッとしない二流であると誰が言ったのでしょうか?あなたの信仰生活はもっと華々しくあるべきだとしつこく言ってくるのが、聖霊でなかったとしたら、どう思いますか?そしてもし私たちが邪魔だと思っているものが、実は歩むべき道そのものだとしたら、どう思いますか?


御言葉によってはっきりと言います。人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安は、どこかにあるもっと青々とした霊的な牧場(まきば)ではなく、今現在のあなたのこの普通の生活の中にこそ見いだせるものだということを。神をほめたたえ、毎日の生活に満足した者となるために、一緒に学んでいきましょう。

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この読書プランについて

The Blessing of Ordinary

もし自分の霊的な生活をもっと輝かせるべきだというしつこい思いが、聖霊からのものでなかったとしたらどうしますか?このデボーションを読めば、どこか見知らぬもっと青々とした霊的な牧場(まきば)ではなく、今現在の自分の生活にある緑の牧場で人知では測り知ることのできない平安を見いだせるようになるでしょう。さあ、一緒にこれから始まる10日間を通して、普通の生活にあるすばらしさから祝福を見つけ、毎日の生活に満足することを学びましょう。

このプランを提供してくださったMatt Orth氏に感謝します。詳細についてはこちらをご覧ください。 http://www.lesswithoutyou.com/matto/

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