かつて現実の世界は、私たちみなが望むような、理想の姿をしていました(創世記1章)。そしていつかまた、現実の世界は理想の姿となることでしょう(ヨハネの黙示録22章)。それなのにどうして、こんなことになったのでしょう。罪や、苦しみや、病や、争いは、どうして存在するのでしょう。なぜ世界は不完全な姿をしているのか、創世記3章1-24節に見ることができます。
創世記3章1-24節の影響は、アダムとイブだけでなく、その子どもたちや、すべての被造物に及んでしまいました。ローマ人への手紙8章18-23節では、すべての被造物が罪ののろいという虚しさ(むなしさ)にさらされ、あがないを求めてうめいているさまが記されています。災いや病は、往々にしてこの不完全な世界の一部にすぎないのです。
舞台の裏で起こっている、隠されたドラマ。その霊的な現実は、目で見えるくらいに、手で触れることができるくらいに、確かなものです。神には敵がいて、神とその民を苦しめようとたくらんでいます。しかし、神はそのすべてを司る(つかさどる)存在なのです。
神についてどんなことが言えるでしょうか。その被造物を見れば、神の永遠の力と知恵の存在は明白でしょう。しかし人々は、神による普遍的な啓示から学ぼうとはせず、耳をふさいでしまいます。神を拒むことによって、人類は自らを、災いへと招き寄せてしまっているのです。
私たちにとって励ましがあるとすれば、それは困難な時代のさなかにあっても、神はご自身に栄光をもたらすことができるという事実です。