復活祭に向けて心を整える:四旬節(レント)のデボーションサンプル

38日目:洗い
13章1節は「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」と訳されています。足を洗うという予期せぬ行為を通し、イエス様は神の愛の核心について教えています。愛とはイエス様の行いだけではなく、むしろイエス様そのものが愛なのです。
私たちは誰かを愛していると考える時、行動や態度ではかろうとします。「愛するとは何をすることか」と自問します。しかしイエス様の予期せぬ没我的奉仕の行為は、より根源的な問いへと私たちを導きます。「私は誰なのか?」この質問を先にしないと、知らぬうちに自分たちの愛に限度を設けてしまうことになります。福音によって生まれ変わったアイデンティティを外れて行動してしまうからです。例えば、もし私たちが自分たちのことを、神様に愛されている子供としてではなく、自分の面倒を見なければいけない孤児だと思ってしまうと、自分たちの分が不足するかもしれないと恐れて、他者への寛大さを制限してしまうことになります。同様に、もし私たちが自分たちの努力によって義とされたと考えていると、プライドが邪魔をして、あの人たちは仕えるには値しない、などと考えて他者に仕える意思に壁を設けてしまうかもしれません。
キリストに目を向けると、キリストの確固たるアイデンティティから、他者に仕える麗しい自由が見出せます。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず…(ピリピ2:6-7)」イエス様は誰も予期していなかった方法で奉仕することができました。それはイエス様は御父の愛を心の底からご存じだったからです。十二使徒の足を洗うことに導いたのと同じ心が、イエス様を十字架にまで導いていったのです。キリストのおかげで、私たちには同じように御父とともにいる特権と安心があります。イエス様が私たちに仕えたのと同じ、徹底的な愛をもって奉仕する自由が私たちにも与えられました。
祈り
天のお父様、私は毎日、自分がキリストにあって誰なのか、また私の命を包んでいる恵みを忘れてしまいます。あなたが私をどう作ってくださったのか、その真実を把握しきれていないために私の愛には制限があります。あなたに愛されている子供である現実を十分に生きられるように助けてください。この新しいアイデンティティにより、他者への愛を惜しみなく注げますように。私自身の愛の制限を取り去り、周囲が驚くほど仕える者にしてください。キリストの御名により、アーメン
著作権©2012年 Redeemer Presbyterian Church
この読書プランについて

四旬節(レント)とは何でしょう? 罪と死がもたらす闇に対する、キリストにある光といのちによる勝利を楽しみに待ち望む時です。 灰の水曜日から復活祭までの歩みのなかで、自分のかよわさを自覚し、そんな私たちを贖ってくださる神様の恵みの現実を思い起こしていきます。
More
このデボーショナルはRedeemer Presbyterian Churchのスタッフにより作られ、2012年にwww.redeemer.com に掲載されました。 許可を得て使用しています。