ピリピ人への手紙 3:3-9

ピリピ人への手紙 3:3-9 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)

彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

ピリピ人への手紙 3:3-9 リビングバイブル (JCB)

肉体の一部を切り取りさえすれば、神の子どもになれるのではありません。霊をもって神を礼拝する者こそ、神の子どもなのです。その礼拝こそが、ただ一つの真の「割礼」です。クリスチャンが誇れることと言ったら、キリスト・イエスがなしてくださったみわざだけです。自分で自分を救うことなどとてもできないと、よく知っているはずです。 しかし万一、人間的なもので救われる人がいるとしたら、私には、確かにその可能性があります。 生粋のユダヤ人として、由緒あるベニヤミンの家系に生まれた私は、八日目に、ユダヤ人のしるしとしての儀式である割礼を受けました。つまり、だれにも引けを取らない、正真正銘のユダヤ人です。その上、律法のすべてを守る点にかけては、最もきびしいパリサイ派に属していました。 熱心さの点ではどうだったかと言うと、熱心のあまり教会を激しく迫害したほどで、ユダヤ教の基準からいえば、非難されるところのない者でした。 しかし私は、以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。それは、ただキリストだけを信頼し、キリストだけに望みをかけるためです。 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もない特権と比べれば、ほかのものはみな色あせて見えるのです。私は、キリスト以外のものは、がらくた同然と思っています。それは、キリストを自分のものとするためであり、 もはや、良い人間になろうとか、律法に従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリストを信じることによって救われ、キリストと結ばれるためです。神が私たちを正しい者と認めてくださるのは、信仰――ただキリストだけを信じ頼ること――を持っているかどうかで決まるからです。

ピリピ人への手紙 3:3-9 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)

彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。