ピリピ人への手紙 1:3-20
ピリピ人への手紙 1:3-20 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)
わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、 あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、 あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。 わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。 わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、 それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、 イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。 さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。 すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、 そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。 すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。 なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。 そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。
ピリピ人への手紙 1:3-20 リビングバイブル (JCB)
あなたがたを思う私の祈りは、いつも神への賛美にあふれています。 そして、私の心は喜びに満たされるのです。 それは、あなたがたが福音(イエス・キリストによる救いの知らせ)を初めて聞いた日から今日まで、全力をあげて、その知らせを宣べ伝える働きに協力してくれたからです。 あなたがたのうちに良い働きを始められた神は、必ずそれを恵みのうちに成長させ、やがてキリスト・イエスが帰って来られる日までに、それを完成してくださると、私は堅く信じています。 こう考えるのは、きわめて当然です。あなたがたは、私にとって特別な存在なのですから。私が獄中にある時も、自由の身でキリストの福音を語っている時も、あなたがたは、私と共に神の祝福をいただいたからです。 私がキリスト・イエスの愛の心をもって、あなたがたをどんなに深く愛し、慕っているかをご存じなのは神だけです。 私は祈っています。どうか、あなたがたの愛が、もっともっと満ちあふれますように。同時に、霊的な知識と洞察力も、さらに深められますように。 それは、あなたがたに、善悪をはっきり見分ける力が備わり、主が来られる日まで、だれからも非難されることなく、心がきよく保たれるよう願うからです。 どうか、神の子どもにふさわしく、親切な良い行いができますように。それは、大いに主をほめたたえ、主の栄光を現すことになるのです。 愛する皆さん。このことを、わきまえていてほしいのです。ここで私の身に起こったことはすべて、キリストについての福音を広めるのに、たいへん役立っているという事実をです。 周囲の人たちはみな、兵営の兵士に至るまで、私が、ただクリスチャンであるというだけの理由で投獄されていることを知っています。 また私を見て、ここにいる多くのクリスチャンは、投獄など恐れなくなりました。彼らは耐え忍んでいる私の姿に勇気づけられ、ますます大胆に、キリストのことを人々に語るようになったのです。 もっとも中には、神が私をこのように用いてくださるのをねたんで、福音を宣べ伝えている人もいます。彼らは、勇敢な伝道者という名声がほしいのです。しかし、もっと純粋な動機から伝道している人もいます。 私を愛する気持ちから、そうしているのです。私をこのような状況下に置かれた主の目的が、福音を弁証させる点にあることを知っているからです。 ところが別の人たちは、自分たちの成功によって、獄中にある私の苦痛がもっと増すだろうと考えて、つまり、私にねたみ心を起こさせようとして伝道しているのです。 しかし、どのような動機からであれ、キリストが宣べ伝えられているのは事実であり、私は喜んでいます。 これからも、この喜びは続くでしょう。なぜなら、あなたがたの祈りと御霊の助けによって、このことがすべて私に益となることがわかっているからです。 というのも、私はこのような期待と希望とをいだいて生きているのです。すなわち、一つも自分で恥じるようなことはせず、かえって、この試練の時も、いつものように大胆に語り、また、生きるにしても死ぬにしても、いつもキリストのすばらしさを身をもって現したいと願っているのです。
ピリピ人への手紙 1:3-20 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
ピリピ人への手紙 1:3-20 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)
わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、 あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、 あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。 わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。 わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、 それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、 イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。 さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。 すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、 そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。 すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。 なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。 そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。