ヘブル人への手紙 10:1-4
ヘブル人への手紙 10:1-4 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)
いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。 もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。 しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。 なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。
ヘブル人への手紙 10:1-4 リビングバイブル (JCB)
律法による古い制度は、やがてキリストが与えてくださるもののすばらしさを、かすかに味わわせてくれるにすぎません。いけにえは年ごとに何度もくり返されましたが、それをささげた人たちを救えませんでした。 もし救う力があるのなら、一度だけのいけにえで礼拝する人々はみなきよめられ、その罪意識も消えてしまったことでしょう。 ところが、年ごとのいけにえは、かえって不従順と罪とを思い起こさせました。 雄牛とやぎの血では、罪を取り除くことはできないのです。
ヘブル人への手紙 10:1-4 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)
いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。 ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。
ヘブル人への手紙 10:1-4 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)
いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。 もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。 しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。 なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。