伝道の書 2:3-26

伝道の書 2:3-26 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)

わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。 わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、 園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、 池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。 わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。 わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。 こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。 なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。そしてこれはわたしのすべての労苦によって得た報いであった。 そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。 わたしはまた、身をめぐらして、知恵と、狂気と、愚痴とを見た。そもそも、王の後に来る人は何をなし得ようか。すでに彼がなした事にすぎないのだ。 光が暗きにまさるように、知恵が愚痴にまさるのを、わたしは見た。 知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれどもわたしはなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。 わたしは心に言った、「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう」。わたしはまた心に言った、「これもまた空である」と。 そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。 そこで、わたしは生きることをいとった。日の下に行われるわざは、わたしに悪しく見えたからである。皆空であって、風を捕えるようである。 わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。 そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。 それでわたしはふり返ってみて、日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。 今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。 そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。 そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。

伝道の書 2:3-26 リビングバイブル (JCB)

いろいろ試してみてから、私は知恵を探求し続ける一方で、酒を飲んで元気になろうと思いました。次に、もう一度考えを変えて、愚かな者になりきることにしました。多くの人が経験する幸福を味わってみようと思ったのです。 今度は、大規模な事業に乗り出して、仕事からくる充実感を得ようとしました。邸宅を建て、ぶどう園、庭園、公園、それに果樹園まで造り、良い作物を実らせるために貯水池まで造ってみたのです。 次に、男女の奴隷を買いました。私の家で生まれた奴隷たちもいます。ほかに家畜の群れも飼ってみましたが、その数は以前のどの王よりも多かったのです。さらに、多くの州や国から、税金として金銀をかき集めました。また文化的な活動として、混声コーラス・グループやオーケストラを組織しました。そのうえ私には、大ぜいの美しいそばめがいたのです。 こうして、歴代のエルサレムの王もしなかったような、あらゆることをやってみました。両眼をしっかり見開いて、これらのものの価値を見極めようとしたのです。 欲しいものは何でも手に入れ、したい放題の楽しみをしてみました。つらい仕事にも大きな喜びがあることを知りました。この喜びこそ、実に、あらゆる労働に共通した報酬なのです。 しかし、してきたことを振り返ってみると、どれもこれも役に立たないことばかりで、風を追うようなものでした。これこそ価値があると言えるものなど、どこにもありませんでした。 そこで、知恵と無知の価値を比較してみることにしました。おそらくだれでも、同じ結論に達するでしょう。 それは、こういうことです。光が闇にまさっているように、知恵は無知よりはるかに価値があります。賢い人は先々を正しく判断しますが、愚かな人は先のことがわかりません。ところが私は、知恵のある人にも知恵の足りない人にも共通点があることに気づきました。 知恵の足りない人が死ぬように、いずれこの私も死ぬということです。それなら、知恵をつけたところで、いったい何の益があるというのでしょう。私は、知恵をつけることでさえむなしいものだと悟ったのです。 賢い人も愚かな人も死ぬのです。時がたてば、両者とも、すっかり忘れられてしまいます。 私はここまでわかると、生きているのがいやになりました。人生は不条理きわまりないからです。何もかもむなしく、風を追うようなものです。 一生懸命に築き上げたものが他者のものになると思うと、いやになってきます。 そればかりか、跡取り息子が愚か者か賢い者か、だれにわかるでしょう。それでも、私の財産はすべて、息子のものになるのです。なんと気分がめいることではありませんか。 こうして、満足感を与えてくれると考えていた労苦も愚かしく思われ、見切りをつけました。生涯をかけて知恵や知識や技術を追求しても、せっかく手に入れたものを全部、何もしなかった者に譲るはめになるのです。そんな者が、私が努力して得たものを受け継ぐのです。むなしいだけでなく、不公平です。どれほど必死に働いても何の役にも立ちません。あるものといえば、悲しみと悩みに押しつぶされそうな、心の休まらない日々と眠れない夜です。全くむなしい話ではありませんか。 そこで私は、食べたり飲んだりすることと、労働を楽しむこと以外に生きがいはない、と判断しました。しかも、このような楽しみさえ神の御手から来るとわかったのです。というのも、神の世話にならなければ、だれも食べたり楽しんだりすることはできないからです。神は、お心にかなった者に知恵、知識、喜びを与えます。ところが神は、罪人が金持ちになると、その財産を取り上げ、お心にかなった者に分け与えるのです。ここにも、風を追うようなむなしさの一例があります。

伝道の書 2:3-26 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)

わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。 大規模にことを起こし 多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。 庭園や果樹園を数々造らせ さまざまの果樹を植えさせた。 池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。 買い入れた男女の奴隷に加えて わたしの家で生まれる奴隷もあり かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く 牛や羊と共に財産として所有した。 金銀を蓄え 国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。 男女の歌い手をそろえ 人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。 かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって わたしは大いなるものとなり、栄えたが なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。 目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ どのような快楽をも余さず試みた。 どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。 それが、労苦からわたしが得た分であった。 しかし、わたしは顧みた この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。 見よ、どれも空しく 風を追うようなことであった。 太陽の下に、益となるものは何もない。 また、わたしは顧みて 知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした。 王の後を継いだ人が 既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか。 わたしの見たところでは 光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。 賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。 しかしわたしは知っている 両者に同じことが起こるのだということを。 わたしはこうつぶやいた。 「愚者に起こることは、わたしにも起こる。 より賢くなろうとするのは無駄だ。」 これまた空しい、とわたしは思った。 賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。 やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。 賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。 わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。 その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。 太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。 人間にとって最も良いのは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること。 しかしそれも、わたしの見たところでは 神の手からいただくもの。 自分で食べて、自分で味わえ。 神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。

伝道の書 2:3-26 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)

わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。 わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、 園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、 池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。 わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。 わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。 こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。 なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。そしてこれはわたしのすべての労苦によって得た報いであった。 そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。 わたしはまた、身をめぐらして、知恵と、狂気と、愚痴とを見た。そもそも、王の後に来る人は何をなし得ようか。すでに彼がなした事にすぎないのだ。 光が暗きにまさるように、知恵が愚痴にまさるのを、わたしは見た。 知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれどもわたしはなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。 わたしは心に言った、「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう」。わたしはまた心に言った、「これもまた空である」と。 そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。 そこで、わたしは生きることをいとった。日の下に行われるわざは、わたしに悪しく見えたからである。皆空であって、風を捕えるようである。 わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。 そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。 それでわたしはふり返ってみて、日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。 今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。 そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。 そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。

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